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2019年3月3日日曜日

最近よくうたう、ユーミンのうた


向こうの、波があるところで、黒い点になってたりするのがサーファーたちです。



声出ししていないと出なくなるから
最近うたうのは、ユーミン、ブランキー・ジェット・シティ、ルースターズとか




数週間ぶりでアコギを背負って、浜にうたいに行った。

寒い冬の日もうたいに行っていたのだが、ここのところ間が空いてしまった。

風がそこそこ強く吹き付けていても、暖かくして行けば、そこで歌えないことはないことがわかった。

人によっては、外で練習するにしても、広々としたところよりも地下道みたいなところでうたうことを好む人がいることを知っている。

音の反響で、自分の声がよく聞こえるからだろう。

浜辺で、風がピューピュー吹いていると、自分の声量がどんな感じで出ているかわからなくなってくる。

それでも、広々としたところで声を出している自分の身体を感じながらやっていると、それなりにつかめてくる。

まあ、どんな感じで声が出ているよくわからないにしても、一時間でも声を出していると、自分の声が出る方に向かいはじめて変わって来ていることがわかる。

とにかく、声は、出し続けていないと、でなくなってくる。

時間を取られるのだが、声が出るようになってくるのは快感である。








昨年暮れあたりから、ユーミンのうたをカヴァーすることをはじめた。

なにげなく口ずさんでみたら、歌えそうに感じたのだった。

ユーミン全曲制覇とかそんなことではなく、多分、荒井由実時代の曲を何曲か試して、歌えそうもないのはやめて、歌えそうな2.3曲をなにかのときに人前で歌えたりできたら、みたいな感じでいる。

さすがに、その頃のユーミンの曲というのは、よく知っている。

それで歌いやすいように感じるのだと思う。

で、実際歌ってみると、そんなにも難しくないような気がする。

演歌歌手の方やロックンローラーのような熱の入れ方、独特な歌技術を必要とする曲ではないと思う。

ユーミンの歌を、ユーミンはどうやってうたっているのか? が気になって、Youtube でいくつかチェックしてみたりもした。

ユーミンのうたというのは、ユーミン本人が歌う場合、ユーミンというキャラというか、それぞれの曲のユーミンとしてのうたい方があって、それもいくらか幅があるのだけれど、その幅の間で決めないと、スベる、って感じになるみたいで、ユーミンの動画を見ていると、そこに気をつけてるんだなあ、って勝手に思う。

自分がうたうのは、ユーミンではないの、自分なりに歌えればオーケイで、気楽かもしれない。


恋のスーパーパラシューター、

ヴェルヴェット・イースター、

紙ヒコーキ、

コバルトアワー、


を練習している。



17:00頃の空にいつも何本か飛行機雲がある。


この日の浜からは、多くのサーファーが海に入っているのがわかった。

もう、春なのである。

海水の温度は、今の気候の温度より遅れた気候の温度なので、スゲー寒いんだろうけれど、サーファーの頭の中は、春で、すでに夏をイメージして海に入っていたりするんじゃないだろうか?


日が暮れる時間も遅くなった。

これからは、どんどん日が長くなってくる。




別に、ライブ活動を頑張らないと、という切迫感は持っていないんだけれど、年末以来、ライブハウスにうたいに行ってもいない。


声が出るようになったらまた行ってみたい、って思ってます。




コバルトアワーの、

「あなたは昔湘南ボーイ〜』って辺りがすごく好きですね(笑)。







2019年1月5日土曜日

冬のはじまりの日 (その日たまたま人助けをした)







その日が今年の冬のはじまりの日だった
浜辺からの帰り道、おばあさんに出会った


その日が今年の冬のはじまりの日だった。

家の窓から見える空は青くて晴れていたのだが、風の音は冷たそうに家に届いていた。

それでも、こんな日だから、と浜辺にギター弾き語りの練習に行くことをあきらめていたら、この冬、たいした進歩もなく終わってしまうだろう。

ギターの弾き語りというスタイルを始めてみて思ったのは、声を出さない日が続くと、声は出なくなってしまう、ということで、そのことにかける時間が必要になるということ。寒いからと言って、練習しなくなると、声は出なくなってしまう。

その日まで、数日間、もう冬だというのに、結構暖かくて、それがニュースになるほどだったのに。



ギターを背負って、家から数キロ離れた海岸まで自転車で。


外は寒かった。








今日からやっと冬なのだな、と思うものの、出てしまうと腹が決まるというか、風が強かろうが気温が低かろうが、うたう、声を出してくるしかない、という気持ちになる。



いつもの浜辺、いつものところまで自転車を走らせると、いつものところの前あたりにサーファーらしい者の車が入りこんできていた。

そこが車道ならともかく、そこは、それほどの高さはないにしろ、堤防上の歩道という分類になってるんじゃないかと思う。

その道に車を駐めていい、車が通ってもいい道だということなら、奥まで入り込んで来て駐めたその車は、あとから来た車が止まっていたりしたら、出られなくなる。

それでも構わないのかなあ、この車は、と思いつつ、そんな車が止まっているから、ということでいつもの練習場所をあきらめることはないと思うので、その車の近く、いつものところでギターをソフトケースから出したりして、練習を始めた。

その車,ワゴン車なのだが、の車内には女性が乗っていた。

男の運転でここに車を止めて、その女性は、車内から、海にいる男をビデオカメラで撮影していた。

海と言っても、波は、風の波だし、それで頑張る波ではもちろんないし、下手だからこそ、そんな波を選んでしまうのだと思えるのだが、そんななかで、海に入っているボクちゃんはなんてかっこいいんだろう、みたいなところを撮ってくれ、ということで、女性にビデオを回させていたのかと思える。




すげー、勝手な連中である。

駐車場はこの海岸にちゃんと2箇所も用意されているのである。

おまえらみたいなバカは海に来るな、と思う。



その車の前を通るとき、もちろん『アナタガシテイルコトハココ二クルヒトタチノメイワクニナッテマース』という視線で車内でビデオを回す女性を見てあげた。





その場で弾き語りの練習をはじめてみてわかったのだが、そこが、その海岸の外れの場所になるとは言え、外れだからこそ、ひとがいないだろうとか考えて、そこまであえてやってくる人たちの場所になっている感じがする場所ではないだろうか?  ということ。



その海の外れみたいな場所なのだが、だからこそ、そこに人が溜まっている、ということ。

釣り人、あえてそこまで歩いてきて、ストレッチしたり、海を眺めたりしていくウオーキング愛好者たち、どこかから来たであろう原付きスクーター乗りとか、自転車でここまで来たみたいなひと、夕日の写真を撮るひと、高校の運動部らしきグループ、走っていくランナーとか。

もちろんそんなひとたちがこの海辺にいるなんてことは頭になくて、車一台分の幅しかない歩道の奥まで来て車を駐めたのだろう。

そこまでわかるものじゃないにしろ、そこまで車を入れてくるか?  ということが問題なんだけれど。



若干いらいらしながらその車の後ろの方で練習をしていた。

いつもだったらウオーキングの人が何人かあらわれる時間なのだが、突然冷え込んだ気候のせいか、やってこない。

あるいは、車がそんなところに駐まっているので、来ていても、危険を感じてそこまで来なかったのかもしれない。

海に入っている男を見ると、波打ち際に押し寄せてくる波の間でもがき続けているのだった。

波が立つその向こうで待つのがサーフィンだが、そこまで出ないし、乗れる波じゃなかった。

それは、サーフィンをしてるとは言えない光景だった。

そういう男がそんなところに車を止めているのである。




結構長い時間男は海に入っていた。




弾き語りの練習を続けた。








そのうち出てきた。


私を避けるようにして、車に入ると、着替えもしないで、すぐさま車を移動させて行った。






やれやれである。




そのあと、練習に集中した。



暗くなるまでそこでギターを弾いて、うたっていた。







もう帰ろう、と決めたら寒いし、早く帰るのみである。


自転車のライトをつけて走っていた。


海の堤防になっているようなところからバイパス道を横切って、小道というか、歩道が長く海の広がりと並行して続いている。

そこを通って国道に出るのだが、道を曲がって、その先の国道までもう少しのところで、変わった向きで止まっている自転車があった。

ひとが乗って、その人の意思で、小道を塞ぐ向きで止まっているのだった。


これはなに?


なにかが起こっているのかもしれなかったが、起こっていたとしても、わかりようがない。

フツーに、「すみません』と言ってみた。

乗っているひとはおばあさんらしかった。

それがなおさらわからない光景になっていた。

乗って、道を塞いで、松林を向こうに備えたコンクリートの壁を見据えて、自転車に乗っているのだった。

しかも、もう、空は夜に変わっている時間だった。

寒いし。

すみません、道を通りたいんで、とかなり近づいて言ってみた。

すると、自転車前輪のほうを曲げて、通ることができるスペースをつくってくれた。


なんだろう今日は?


と思いつつその先に出たのだが、出て、これはかなりおかしいことが起こってるなあ、と気がついて、自転車を止めて、おばあさんのところに行ってみた。

近寄ってみると、顔の右、頬骨のところから血を流していた。

何かあったことは確かだろうけれど、立っていられるので、そのことに関しては大丈夫みたいなので、どこから来たのか聞いてみることにした。

ええっ?

とか小さく言う言葉しか帰ってこないので、この辺に住んでるんですか? とかどこから来たんですか? など繰り返して声をかけてみた。

すると、小さな声で、そこから20キロ近く離れた地名を口から出した。

なぜそこから来たのかわからなかったので聞いてみると、買い物、ということだった。

よくわからない。

顔から血を流しているし、わからないが、このままにしておけないことが目の前にあることは確かだった。

嫌がっていたが、警察に電話してみることにした。

スマホを持っているのである。

スマホを持って、電話をかけるのは、これで2回目である。

一回目は、設定したパスワードを間違えて入力したりして、あれ? パスワードの設定間違えたかなあ?ということになって、そういえばメールって誰からも届いてないなあ?  などと考えて、ドコモに電話して、遠隔操作で設定など修正したときに。

2回目は100番か、と思いつつそうしてみた。

こんな場合でも100番でよかったみたいで、こちらとしてもよかった。

そんなことで100番されたら困る、と返されたらどうしようか ?  という気がした。



そこをそのままあとにしたら、そのおばあさんはずっとそのまま、コンクリート壁を向いて、一晩中でもそこに立っているだろう。

寒かった。

少し行くと、コンビニが国道沿いにあるが、コンビニにに行かず、そこでそのまま夜の中に居続ける感じだった。

キャンプやツーリングでこの寒い日に海辺に向かったのではどう見てもない。

怪我をしてるし、寒さで命も危なくなって来る感じである。

警察に保護してもらうのがいいに決まっていた。






警察がパトカーで到着した。



どこで事故にあったのか?

家はどこか?

など聞き始めた。



ひとりで転んだみたいだった。

一人暮らしだった。




去り際におばあさんは私に「ありがとうございました」と小さな声で言って、頭を下げた。





人の助けにならないで生きてきたひとなんだろうなあ、と思った。



それが、この冬の始まりの日にあったことだった。










この日のこのことを話す動画を作った。

こういうことは、ひとに話すことでもないように思っていたのだが、何かとアピールしていかないと、わたしがどんな人間なのかちっとも伝わっていかないのがweb 上のことで、それで Youtube 動画も見てもらえないのかなあ、と売名しなくては、と思ったのがまずあったのだが、そのことはまあいいか、と思い直した。

思い直したのだが、こういうことは、これから多くの人が出会うことになるかもしれないことだし、こんなとき、警察が力になってくれるだろう、と考えて、動画を作り、公開することにした。

ご興味よろしければご覧ください。










2018年10月9日火曜日

海辺で歌う、夏が過ぎてもつづけよう

Nikon coolpix s32 
海辺で歌う
歌うことをつづけていく


8月に、『天竜浜名湖鉄道線駅を自転車でめぐる』という企画と、その後で『HOLGA 撮り旅』という企画をはじめて、9月初旬まで、企画のために動くことが多かった。

このブログ、もうひとつのブログ更新も滞ってしまった。

書けばよかったのだが、YouTube 動画編集との兼ね合いなどを考えているうちに更新せずに日が過ぎていってしまった、という感じだった。

このブログも、もうひとつのBlogger ブログも、そんなにきちんと分けて考えたりせずに、更新していくことをまず、というふうでいきたい。

そしてまた、浜辺で歌うということも、一月ほど休んでしまった。

行けるときに、浜に行って歌う、それだけのことだが、これをやっておかないと声が出ない。

歌をうたう筋肉というものがあるらしい。

そこを使っておかないと声をだすことが難しくなるらしい。

休むと、とにかく声は出なくなる。

ただでさえ出ない声だから、声をだすことをつづけていないと、歌なんかうたえないのである。

一月休んだということは、豊橋 AVANTI 参加型フリーステージも休んでしまった、ということでもある。

できればオリジナルを作りたいのだが、なかなかその時間が取れない。

いや、その時間を作らない、ということかもしれない。

あと何年歌をうたっているんだろうか?

と思いはするのだが、やれるうちはやるべきだろう、とこころしている。




海辺の景色は、台風24号が若干詳細を変えていた。

なんでここに、ここまで流木が上がって来ているんだろう?  とか新たな木々がコンクリートの堤防にあったり、たしかここに木があったよなあ、というところになかったりしたし、捨ててあるのか置きっぱなしにしてあるのか首をかしげてしまうのだが、ママチャリが堤防上にあったりした。

2時間ほどうたった。

これまで歌い続けてきた歌と、ルースターズのカヴァー曲を新しく増やしたりした。

風がそれなりに吹いていたので、行くべきじゃないような気もしたが、それほど強くなかった。

この先、ピューピューと風は海辺で吹き続けるのだろうけれど、風が強くても声は出すことができるものだ、と思う。

冬が来ても、ここに来てうたおう、と思った。



海ではサーファーの姿があった。


空の雲の形を見ていた。


夕焼けがしていた。








2018年8月7日火曜日

海岸線沿いに過ぎていく旅人と会う


梅雨が明けて、晴天がつづいていた7月の浜辺

海岸線沿いの旅人
浜辺にいると旅人に出会う



静岡県西部地方は浜の海岸線が長くつづいていく。

静岡県中部から先になると、川とか、漁港とか、埋立地とかで、浜辺が切れていくんじゃないかと思う。

その浜辺と言うか海岸線は、愛知県伊良湖岬からずっとつづいている。

このあたりだけのことを思うと、海沿いに、浜を通って日本列島を進んで行けるという思いが生まれても仕方ない、と思う。

気楽に、ずっと浜辺を通って進んでくことができるだろう、と。

浜辺でなくても、海に沿った道を行けば、日本列島を回ることができるということにもなると思う。

ひとが多く住む街があって、いろんな店も宿泊施設もあって旅に便利なのは、海岸線から少しでも入ったところだろう。

が、海岸線やら海沿いの道やら浜やらを進んでいく旅人がいる。

浜の堤防になってもいる、コンクリートの道とも言えそうなところの、そこの浜辺の一番端っこのところで、アコースティックギター弾き語りの練習をしていることがある。

日常的に、そのあたりまでウォーキングをしに来る人達もいるので、一番端まで行ってギターを鳴らすようになった。

そこにいても、なんでこんなところから現れるんだろう、という歩いているひとや、上半身裸、下半ズボンで浜辺を走っていくひとやら、ポケモンゴーをやってるのかなあ? なんてひとを見かける。

ほか、バイクやスクーターで、来れると思ったのかそこまで来てみて引き返すひともよくいる。

そんななかで、このひとは、旅人なんだろうなあ? と思う人も現れる。

自転車で、後ろの荷台にキャンプ道具らしきものをくくりつけて、その先は道が途切れて進めないことを確認すると、そそくさと向きを変えて去っていく。

そんなひとを、そこでギターを弾き始めてから何人か目にしている。

ママチャリに乗った、すごくおしゃれで高そうな服を着ているおじさんがいた。

きれいな格好なのだが、キャンプ道具らしきものを荷台にくくりつけていたので、浜でキャンプして進んでいくんだろうと思ったが、なぜそんなおしゃれな格好なのか、派手目な色使いのシャツと折り目がついたスラックスに高そうなウオーキングシューズみたいなのをはいていた。

そういうひとが、ギターを弾いている私の後ろを通って行く際も、その手の人達は、明るくて、『こんにちは、いやあ、いい天気ですね、ギターですか?」みたいな感じは出さない。

人目を避けて先を急ぐ、みたいな人たちである。

誰にも会いたくない、みたいな。



数週間前になるが、そこに行くのに、東から西に自転車で走っていく間に、あれ? あのひと自分と行先がおなじなのかなあ、と思える人を見かけた。

やっぱりそうで、いつもの場所に行こうとした堤防の上で、そのひととすれちがった。

ひと月前になるが、Youtube で『彼女と彼』という羽仁進監督の映画(1963)を観ていた。

その彼は、バタ屋をやっていて、いつも愛犬と一緒だった。

団地生活の彼女の暮らしなどとの対比が描かれていたのだが、その自転車のひとは、その彼に似ていた。

自転車のサドルは黄色いガムテープでぐるぐる巻きにされていて、荷台にくくりつけてあるキャンプ道具らしきものも、スタイリッシュには見えなかった。

髪は伸び放題だし、髭もそうで、旅人なんだろうけれど、なにか異質な空気感を放っていた。

気になったんだと思う。

自分でも知らないうちに声をかけていた。

「この道はここで切れちゃうんで、もう一度もと来た広い国道に出れば行けますよ。ずっと、海沿いに進んでいけますよ、自転車道があるところもあるし」

そのひとは、わかった、みたいにうなずいた。

「どちらからこられたんですか?」

「山形」

「へー。で、どちらまで行かれるんですか? 」

「沖縄」

「・・・・・」

「・・・・・」

「すごいですねえ、お気をつけて」

という会話をした。

沖縄は、西の方角である。

そのひとははじめ国道で見かけた時は、西に進んでいた。しかし、会話した時は、東に進んでいこうとしているみたいだった。

もう沖縄に行って、山形に帰ろうとしているところだったのか、これから沖縄にいこうとしているとろだったのか、わからなかった。



すごいひとと会っちゃったなあ、なんて思いながらその日は練習した。



このイラストは、Yahoo ! のブログに書いたその映画「彼女と彼」の感想のところに貼った、私のイラスト。
その自転車のひとは、こんな感じのひとだった。






2018年7月6日金曜日

『春夏秋冬』泉谷しげるさんの歌詞、私の解釈


6月下旬、浜辺で撮った梅雨空の写真
Nokon coolpix s32












なにもわからなくなっているひとのうただと思う
『春夏秋冬』歌詞 : 泉谷しげる















『崖から飛び降りる』という名前で地味に音楽活動をしている。










る7/16に豊橋のライブハウス AVANTI 移転3周年記念企画ライブ『新生 AVANTI 3歳の宴』があって出演させていただくことになった。

演奏形態としては、アコギ一本+声である。

アコギをエレキに替えてみたい気持ちも結構あるが、このライブで突然エレキになって、エフェクターなど多数かましたりして、わけがわからないことになるよりもいいかと思うので、やはりアコギで行く。

で、問題になるのは演奏曲である。

やはり全曲オリジナルがいい。

しかし、それほどの曲数がないことと、全曲オリジナルで、というスタイルはこの前の東北震災チャリテイライブでやったので、数曲はカバーにしようと思う。

最近思っていることは、アコギ一本で、ロックな曲をやっても、バンドの音がつくるインパクトとはどうしてもかけはなれてしまう、ということで、アコギ一本に合う曲がいいのではないか、ということ。

それなら、日本フォークがいいのでは?

うたいやすそうだし。

みんな知ってそうだし。

なんて思った。

聞いてこなかったようで、結構知っている。

で、YouTube で何曲か聞いているうちに、坂崎幸之助さんとなぎら健壱さんがフォークについて話したりしている、もとは TV 番組らしいのだが、そんないくつかの動画に当たった。

見ると、結構がっくりくる。

内容を詳しく書かないが、自分としても、日本のフォークにハマることなく過ごしてきたのは正解だったなあ、なんて思う動画になっていた。

となると、 AVANTI で歌う日本のフォークソングはないなあ、ということになってしまった。

その動画を見る前に、これをやろうかなあ、なんて思いついて、例によって、浜辺で練習した曲がある。










泉谷しげるさんの『春夏秋冬』である。











歌詞とコードを某web サイトから印刷したものを持って、浜に行ったのだが、うたっていて、なんだかなあ、ということになった。

これは、あくまでも私の感覚、感性によるものだが、この歌詞は何だろう?  ということになったのである。

他の多くの日本のフォークソングでも感じることと似たことを感じてしまったのだった。

その頃の日本のフォークソングは、歌の中で、ウマイことを言う、とか小噺的なものだったり、みたいなことを感じることがあったのだが、うたうひとがうたえば、その内容はそんない問題にされなくてOKみたいなことはなかっただろうか?

もちろん中には優れたものもある。

よく聴いたことは申し訳ないけれどないのだけれど、中島みゆきさんなんてそうかもしれない。



















『春夏秋冬』は、曲としては、ボブ・デイラン的なものを私は感じるし、歌詞は、春夏秋冬、東西南北、という言葉にかけて、その流れ的な感じでできていたりする。

その歌詞から真っ先に頭に浮かぶのは、宮沢賢治の『雨ニモマケズ』で、この曲が名作だという以前に宮沢賢治のその詩が』名作なのではないか、という気がしてならない。

じゃあ、それにプラスして、東西南北もつけとこう、みたいな感じもある。

それでもその流れでこの歌詞が進んでいくとして、わからなかったのが、『今日で〜』が出てくるところである。

これは悩んだ。

今日というその日になにが起こったのか、なにがあるのか、ちっともわからない。

その今日は、歌詞的には、宝くじがあたったとか、ハクション大魔王から壺をもらったとか、山中の泉で木を切っていたら斧を投げ込んでしまって神様に出会った、宇宙人と遭遇、とかくらいのことがおこる今日だとしか思えない。

それがちっともわからない。

ずいぶん考えた。

歌詞の流れに、そんなハクション大魔王的な匂いはない。

考えて、でてきた答えは、このうたは、なにもわからなくなっていることがテーマなのではないだろうか、ということになった。

シテイ・スリッカーズ化したうたの中の主人公は、都市生活で、自分でわかることがなにもなくなってしまっているのでは? という感じ。

その時代によく歌われたりした語にコンクリートジャングルということがあったと思う。

都市化されたことで、それまであった風景が失われ、地形とともにあった自分の感情やらも失われ、ひとの心も失われ、みたいなこともこの歌詞から読み取れる。

そして、『今日』なのだが、そんな環境にいて、訳がわからなくなっちゃって今日という日になにかが起こるみたいなことを言うのだが、その確かさも失われてしまっている自分やら社会やら、身の回りの人間関係やら、ということを言いたい歌なのではないか? という結論になった。

多分、東西南北、春夏秋冬、ということにかけて言葉を出して、今日でとか、すべてが変わるとか、その頃の洋楽にあった詩をもじったものでオチを付けてみた、みたいなことでできた詩なんじゃないか、と思えた。

もとはテキトーかもしれない。

もちろんこれは、私が勝手にそう思うだけで、この歌が好きな人に対してどうこう言うつもりはない。















自分なりに考えて、この歌は、人前で歌うのはやめよう、ということになった。

















70年代日本のフォークブーム、

音楽を演ることに優しい人達が支えていたのかもしれない、と思う。

アメリカにf−クソングのブームがあるなら、日本にも欲しかった、と思う人達が支えていたのかも、とも。














AVANTI のライブで歌う歌を決めないといけないなあ。














6月下旬 ,梅雨空と海辺
Nikoncoolpix s32 













豊橋ライブハウス AVANTI HP :  https://www.avanti-music.com/




















2016年5月20日金曜日

#浜松POP6 まとめ。

 #浜松POP6

5/15 #浜松POP6 まとめ

鴨江アートセンターへの道すがら、クラウン(ピエロ)の雨ニモ 負ケズさんに遭遇。
パシャリ!
この日鴨江アートセンターで、浜松路上演劇祭に関したことがあり、それでこんなところで行き合ったよう。
後見人について、これから街中でアピールしに行くところだったんだろうか?
はてな? 





仕事とか、イベント参加とか、なにやかんやとか、結局誰も現れず。
スーパースターが通る道だよなあ、などと思いつつ、約3時間、はじめにライブをやり続けた。





見かけた人が来てくれないか、と考えて紙看板を作ったが、来ず。
通路にいた子供連れ主婦に声をかけて断られたのがこたえた。







会場の206号室から写真を撮った。



いい練習になった。

次回 #浜松POP7 は、7/17開催!

盛り上げよう!



#浜松POP6 の YouTube 動画はありません。
#浜松POP に関しては、こちらのホーム・ページをご覧ください : http://oharamaruno.wix.com/hamapop