公園開始の幕が上がった所。 今回からお囃子はCDでなく、実演奏になったらしい。 ちょっとキレが悪いところが学生っぽくていい。 |
今年も行ってきた
年末恒例愛大落語会
はや12月。
12月16日に今年もこの時期恒例の愛大落語会に行ってきた。
今年は来年3月に卒業する4回生が一人しかいないということで、岐阜大学落語研究会の同じく来年3月卒業4回生が参加していた。
コロナの関係もあるのか、出入り口でのにぎやかなお囃子での対応も控えめで、出演者の数と相まって、ちょっと寂しく感じた。
この紙をめくりに来るお姉さんがいて、それも見どころである。 |
そしてまた、毎年愛大落語会に来て思うように、大学と地域の関係のことなんかいいなあ、なんて思ったり、学生落語、落語について思ったりした。
落語を聞いて年を終えるというのはなんとなくその落語のようにいい感じに一年をまとめられるような気がしていいし、落語的な見方を頭に持っていると生きやすくなるなあ、なんて例年思うのだが、それだと悪いことをしている側まで落語的な枠に入れて考えてしまい、お後がよろしいようで、みたいな平和でなあなあよかったよかった笑ったね、で終わってしまうような頭になるのではないか? それでずっと日本はやってきたので、相変わらずの政治問題やらジャニーズ問題、ビッグモーター問題みたいなことがなくならないのではないだろうか? と考えながら公会堂を出ると豊橋駅への道を歩いて行ったのだった。
落語的なものの見方も持っていると生きていく助けになることは確かだが、ダメなものはダメだろう、ということが今年この時期に強く思うことだった。
この日はこの落語会の後、浜松でみたかった人の音楽ライブがあるので、そっちも行こうかと思っていたのだが、年末年始に青春18切符を使っていくところがあるので、そっちでお金いるだろうなあ、と考え直して、ライブを見に行くことは見送ることにした。
忘年会なんてものもないので、ライブを見たりして一年を終えるのはいいなあ、なんて思ったんだけれど、今年も愛大落語会で落語を聞いて、考えることができてやはり落語頭でよかったよかった、ということになったのだった。
また来年もこよう。
会場の豊橋市公会堂。 |
TVのおかげで落語というものが広まったと同時に、TVに出てくる落語家さんこそが落語家で、見る、聞く価値があるものだ、なんてことにも鳴ってしまったようなことも思う。
いろいろなひとが落語をやっていいだろうし、いろいろな落語家さんの噺を耳にする機会があっていいだろう、とか言うことも思っているのである。
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